最近気づいたのですが「人に価値がない」ですよね。大物アーティストが死んでも「あっそう」で終わり。アニソン歌手の水木一郎が亡くなっても追悼番組もないし。坂本龍一が亡くなっても……だった。先日八代亜紀が亡くなったけど「はい、おしまい」だった。八代亜紀ぐらいの大物が亡くなってもテレビ局が「連続特番」「追悼・八代亜紀コンサート」とか……しもしないわけです。なんだろね。
私が小さい頃は、こういうクラスの人が亡くなると「テレビ特番」で追悼番組やメモリアル番組をするものだった。だけど、それが今はない。「亡くなりました。51歳」で終わり……。志村けんだけ「前のバカ番組のシーン何度も放映」したのが……「不思議」だった。あれが「世界的」「日本的に」「価値ある映像か?」はなはだ……疑問だった。もっと、大事な人についてはマスコミは「報じもしない」。
■東大の先生でも「成果が残らない」時代になった
変な話ですが、デジタルでサーバーによってあらゆる情報が「完全な形で」「永久に」残せる……時代になったのに「残らない」現象が相次いでいます。
今から20年前ぐらい、私は「恩師」の佐藤克己先生の著書を渋谷区の図書館に寄贈しました。一般の人にも大事なことを書いてあるいい本だと思ったのでそうしたのですが、先日調べたら「全部捨てられて」いました。
ちなみに、私の親戚のクリスチャンの内海和子の本も捨てられていた。あー、なるほどね。そうくるか……。
わからない人が多いので佐藤先生の経歴を簡単に書いておくと和歌山県出身で公家の藤原氏の佐藤氏の末裔で、数学に強い家系でした。京都帝国大学(現在の京大)の哲学科に入学していたけど、哲学では食べられないと親にも言われて、東京帝国大学の経済学部に転部して経済学者になりました。戦時中は新明和の役員とかして戦後は桜美林大学の経済学部の創設に伴い教授・経済学部長になりました。お父さんは、国会議員の尾崎行雄の後援会長をされていました。
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先生は、1907年(明治40年)1月19日三重県熊野市生まれ、京都帝国大学(現在の京大)哲学科で西田幾太郎の最後の弟子となり、2年後、東京帝国大学(現在の東大)経済学部に再入学、卒業後、第二次大戦中は企業経営に携わり、戦後は新聞記者として「石川新報」コラム連載などを続け、その後、桜美林大学経済学部の創設に関わり、経済学部教授として活躍され。退官後名誉教授になった。「東大新報」にも執筆。生涯を読書(3万冊)と学問の追究にうちこみ、大学退官後はさらに経済学を越えた真理を探究、ついに「新陽明学」を完成させた。
桜美林大学時代は佐藤ゼミを率いて教え子も多く、頭脳明晰、清貧、信念を貫いた生涯であった。若かりしの菅直人、三塚博など政治家で慕う人も多かった。
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そういう佐藤先生には自民党の三塚博や野党の菅直人とかが弟子として勉強に来ていたわけですが、私はその最後の弟子になりました。
すでに三塚博や菅直人も今の人は「知らない」のかもしれない(寒い)
佐藤先生は平和主義者で世の中どうしたらよくなるか?常に弟子に伝えていました。尾崎行雄にも直接会っていた熱心な方でした。
第二次大戦で日本がアメリカにぼろ負けしたら、弟子には「アメリカ憎しで、報復するとかやめなさい」と戒めておられました。
そして世の中の貧富の差、不条理な世の中を改善するにはこうおっしゃってました。
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物より心 利より義
物質優位の文明より 精神優位の文明へと
文明の重点を転換しなければ
『資源の枯渇』『環境破壊』『住めない地球』
は不回避である。
……
昭和20年8月15日、『敗戦を告げる玉音放送』を聞いた時には、これまでの、日夜の健闘も、これで水の泡かと悲痛と悔恨の情で熱涙滂沱として立っている床下コンクリートの地面を濡らすほどであった。
放送が終ってから、私の周りに集まってきた課の青年達は、みんな昂憤して、異口同音に『復讐』を誓い合った。しかし、私は、これらの青年達に真向から叫んだ。
『君達は復讐するというが、どうして復讐するのか? 恐らく二度と再び起ち上がれないように武器という武器は、ことごとく取り上げられて「完全非武装」の状態にされてしまうであろう。武力による復讐は真に正しい復讐ではない。たとえ、物質的には貧しくとも「道義水準の高い国家」をつくり上げ、全世界の人々をして「日本という国は気高い魂を持った素晴らしい国だ」というように仰いで讃仰の念を禁じ得ないような道義国家を造り上げること、これこそが真に正しい復讐だ』
厳粛に根本原理を熟慮しないからではないか。
何が真の価値であるか。根源的に不朽の価値とは何か
道義以外に価値高きなにがあるか。
『朝に道を聴くことを得れば
夕べに死すとも可なり』
という聖賢の言葉を思い浮かべるがよい
(佐藤克己)
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マッカーサー司令部企画課のマーガレット・ストーン女史は英国の食糧政策のうまくいっている理由として『配給制度の公正なる運営』と『国民個人の良心が、不正行為をすることを防止している』からだと言い、日本の食糧問題に関しては、『日本では主食糧が少量だけ正規のルートで配給され、大部分は闇に流れている』と痛いところを指摘している。
……『衣食足りて礼節を知る』というが、「衣食足らない英国」では「闇行為」は全く皆無だという。従って『配給制度』は実に、うまく運営されて結局、『乏しいながらも衣食足る』生活が可能になるのである。
通念に対して、逆説のようであるが、『礼節を知って初めて衣食足る』とも言えるのである。
経済学の原理では『①無限多様の欲望を、②有限不足の財で充足しなければならない』ところに、経済行為が成立するというが、『欲望が原理的に無限ならば』『衣食足りる』ということは有り得ないことになる。従って『礼節を知って寡欲ならば、衣食足りる』ことになる。これは、決して『逆説』ではなくて、この方が、理論的に『正論』なのである。
さて、理論は、さておいて『主食糧が少量だけ正規のルートで配給され、大部分が闇に流れている』というのは、即ち、『礼節を知って、個人の良心が不正行為を抑止しているならば』『大部分の食糧は正規のルートで配給されることとなり』『衣食は足るようになる』のである。
即ち『礼節知って衣食足る』のである。
(佐藤克己「花と焔の国に誇りを持て」陽明義塾刊より)
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それで、こういうことを書いておられた佐藤先生の著作を私は「後世に残るように」公共図書館に寄贈した。
■私の親戚だった内海和子の本も捨てられた
ちなみに、私のいとこだった「内海和子」は明治時代に一家が下関で洗礼を受けてカトリックのクリスチャンになり、頭よかったので日本のキリスト教布教では歴史的に有名な岩下壮一の女性で初めての書生になった。マザー亀代子の命で創設された聖心女子大の前進にあたる学校で日本文学の教師をしていた。英語、フランス語、ラテン語に堪能で日本のキリスト教の教会で歌われている「讃美歌」のかなりを日本語に翻訳した。その成果は「無名」にされている。
第二次大戦後は京都に逃れ、大学教授らとGHQの文書の翻訳の仕事をしていた。
東京に戻ると上智大学でH.チースリク卿と一緒に「御心の使徒」という雑誌を出していた。
父は南画家で昭和時代カトリック司教らに頼まれ「ザビエル上陸」の絵を描いて、これはドイツにある。一部は山口のザビエル記念館にある。行けば「部分」は見れるかもしれない。テレビでもあの絵は使われた。
そういう内海和子の本も「全部捨てられた」。
ちなみに内海和子と内海宙大の画数は一緒である。これにはぞっとした。
ということで関係ないね。どんな人であろうと……。
歴史が残らないようにされる。
渋谷区クズだね。そしてそれを大事にしないで捨てていく渋谷区民も……
つまり、今の若い人には「佐藤先生は知らない人」「わからない」わけ。
これが、私自身もそうなるだろうし……ひろゆきだろうが、ホリエモンだろうが、森永卓郎だろうが、岸博幸、オタキングの岡田だろうが……全員「そうなる」
あいつらも「動画ができなく」「マスコミが報じなければ」「たちまち消滅」する……そんな程度の存在なんだ。
つまり「消える」。「歴史からも」「みんなの記憶からも」
誰も残れない気がしている。
どんなに偉い人、学者も「サーバーの上のデータの並び」でしかなく、それも「一瞬で」「命令があれば」「消去」される。
検索エンジンから「出ないように」されれば、それもまた「みんなの記憶と」「つながらなくなり」「消える」
これだな!と。今の社会・世界の本質は……
歴代の首相が死んでも「あ、そう」で終わる時代。実際……もうなっているけど。
唯一残れるとしたら「歴史の教科書の年表の」「氏名」程度かもしれない。
ただ、その人が「どういう人で」「どういう生き方をして」「どういう交友関係」だとか……そういう情報も、調べない人以外は「わからない」「知りもしない」世界になる。「どういう食べ物食べて」「どういう女性とエッチして」とか……はまるで残らないだろう。
■本にしても「残らない」
左翼系の市民運動のジャーナリストが「公害問題の本を書いたので」「読んで感想をほしい」と送ってきた。
まあ、私が読むのはいいのだけど、それより「それ」「国会図書館に寄贈だけはしておいたほうが」「いいと思う」
私が寄稿した雑誌も、何冊かは国会図書館にある。出版社がしてくれていた。
でも、都立図書館とか県立、市の図書館に寄贈しても「多分残らない」
彼がしたいのは「多くの人に知らせたい」のだと思う。だけど……「伝わらない」「構図的に消えてしまう」わけだ。
くだらない動画にして、ひろゆきやホリエモンみたいに「炎上」でもしたら、少しは一般人は振り向くかもしれない。
だけど、そうでない「まじめに」「きちんと」「仕事した」人たちの成果は「伝わるどころか」「そのまま誰も知らないまま」「消えてしまう」のだ。
■人類自体も「記憶に残らない」可能性
私は1971年に生まれて1980年代からの「コンピューター全盛期」を「生まれから」「終わりまで」見ている時代に生きている。
インテルやアップルが生まれ、マイクロソフトが成長していく……それを頭からしっぽまで見ている。
そして、いま、世界の人類は「ネット」「サーバー」でつながれ、一瞬で相手とコミュニケーションもとれる。そしてお互いの「情報」も「共有」できる。すごく便利な時代になった。
経済の記録、お金の記録……全部……サーバーにのって、それでやりくりしている。
けれど、そのネットとサーバーは「核戦争」「停電」には「あまりにも弱い」ものだ。
私はITシステムの専門家で、システムエンジニアでありプログラマーでもある。役所や大企業のシステムも構築して書いてきた。
その自分が「そもそも、こんな信頼性も永続性もない」「ITインフラ」に「すべての情報をのせて」「後世に伝える」ことが……「たぶんうまくいかないだろうな」と当初から思っていた。
そして、その「行き詰まり」「末路」があまりにも早く見えてきた。
これから、われわれは第三次世界大戦に突入する。今度の戦争は「開始からわずか20分以内に」「大量の弾道ミサイル・核ミサイル」が「いっせいに国を襲い」「戦後70年築き上げてきた、工業都市、インフラが」「一瞬で壊滅していく」時代だ。
1月1日の能登半島地震の破壊ぶりを見たら「明日はわがみ」「日本の未来はこうか」と鈍感な人も「理解」したのではないか?
いざ今度の戦争になったら、山や森に逃げ込んでも「ドローン」「小型ロボット」が人間たちを精密なセンサーで探知して「確実に射殺」する時代だ。
そして政府から企業、個人が「電力に頼るサーバーにあらゆる情報をおいて」いるがゆえ、一度それが破壊されたら「一瞬で」「すべての記憶を」「失う」ことになる。
家も工場も、ネットもない世界に放り出された人類は……「スマホやPCで検索しないと」「何も知ることができない」「自分だけでは文明を再起できない」状態に突然なるわけだ。
高度な医療もすべて……電力とITインフラで動いている。それも失われる。だからほとんどの人は「自動的に死んでしまう」
生き延びた人たちも「食料の自給自足」ができる「知能や」「知識」が「サーバーにあるので」「やり方がわからず」「餓死していく」
こうして人類は、案外短期間で「消滅」「絶滅」するみたいだ。
そして、人類が消えたあと、破壊されて残った都市や飛行機、ビルなんかも「遺跡」になって、数千年、数万年かけて「消滅」していく。
それがあるのが「火星」なんだ。
そこに、もう一度、我々は「戻ろう」としている。アホみたいだね。
(内海君:小市民)