内海新聞のブログ

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2069:映画「オッペンハイマー」を観て

これ、書いている途中で石垣・宮古島方面で大きな地震が起きました。津波警報も出ていますね。うわー。
 アカデミー賞を総なめした話題作の「オッペンハイマー」を観てきました。それにしてもイオンモール今治新都市のシネコンの「ひどさ」にはがっかりです。これだけの大作が「深夜だけ大スクリーン」なのです。

同時に「デューン砂の惑星」のパート2もやっているのですが、こちらも「小さいスクリーン扱い」です。

じゃあ、イオンモールは何を大スクリーンでやっているかというと「ドラえもん」「変な家」です。こんなの……大スクリーンで見る必要はないです。

イオンという会社の「根性の悪さ」よく出ています。この辺が東急グループとちょっと違うよね。東急は文化・メセナ活動で芸術家支援はけっこうしていたけど……イオンの岡田一族にはその辺の「教養」「感性」がない一族なんだと。

まあ、東急の場合創業者の五島慶太の「五島美術館」あるだけ……文化への理解度の違いがあるのかもしれませんね。

■日本国民と広島・長崎の人は「絶対みるべき映画でした」
 これ、さっそく「勘違い」「ノーラン監督の意図」がわからない「知能が低い」アホが「広島の原爆投下シーンが欧米視点で省かれている」「ダメだ」と評していますが……私はそうは思いませんでした。

むしろ日本国民は絶対見たほうがいい映画でした。

■ノーラン監督の意図は?
ノーラン監督はユダヤ人なのかビミョーにわからないけど、お父さんはイングランド、お母さんはアメリカ人なので「米英イスタブリシュ」の側のバックグラウンドだと思います。

私は彼の「インターステラー」を映画館で見て「ずいぶん、理論物理学が好きというか詳しいというか」「この人理系の物理出身なのかな?」って思うほどのできでしたので(あれはNASAや宇宙物理学の現役権威の学者が科学考証をしていた)

その後の彼の作品は「時空間」「宇宙物理学」をやっぱベースにしているかと思えば「ダンケルク」のような「歴史時代考証をリアルに表現した」映画が多いです。

その一環で彼は「アメリカ原爆の父で天才物理学者のオッペンハイマー」をわざわざ取り上げたのです。

そして、この映画は「CGほとんどなし」で作り上げられました。特殊効果や原爆のシーンなども……CG使っていないんだそうです。

すごいですね。

ノーラン監督は「CG嫌い」「スマホやSNSしない」のようなIT嫌いなのに、作品はもろSF近未来作品です。

そして、ここのところはやりの「原作小説やコミック人気作品」を「焼き直し」するのでなく、映画のために自分で脚本を書いて自分で映画をつくる……そういうポリシーです。

いまや当たり前にVFXが乱用される時代において、あくまで「アナログ中心」の映画作りをしながらも「驚異的なリアルな映像」を作り上げる技には「映画人としてのすごさ」「大林宜彦監督のような映画としての映画づくり」を追求する人だと思います。

私が彼の「インターステラー」「オッペンハイマー」を見て感じるのは「2001年宇宙の旅」を尊敬し、インスパイアしているところです。

この映画は「いきなり途中」から始まります。欧米の人は知っているかもしれない「オッペンハイマー事件」によって、オッペンハイマー旧ソ連(ロシア)のスパイだと疑われて尋問されるシーンからです。

そこから、彼の「人生の回想」が尋問シーンと交差しながら展開されます。

オッペンハイマーは第二次大戦においてアメリカ軍が行っていた「マンハッタン計画」のリーダーでした。アメリカが総力を挙げてナチスドイツに対抗して原子爆弾を一刻も早く開発する……その重責を負います。

研究チームのリーダーとして権限を与えられたオッペンハイマーは「ロスアラモス研究都市」を砂漠の荒野に作り上げます。

数千人の研究者と家族が移住して原爆の開発を始めます。

そして、映画の途中までは「ハーバード大、ドイツやイギリスの大学で頭脳と実力を認められる優秀な物理学者としての成功の歩み」「愛人と本妻を行き来し女癖悪いけど、もてる天才エリート」の私生活。

そしてついに原爆を完成させ「トリニティ実験」という世界で最初の「原子爆弾の爆発テスト」を成功させます。そして広島と長崎に投下する原子爆弾もここで続けて製造していきます。

そのあと広島と長崎に原爆は投下され、第二次大戦は終わります。
でも、この広島と長崎の投下シーンはまるでなく「ニュース放送」だけで終わります。あっけないぐらいさらりと済ませられます。

この点は日本人として「せっかくなんだから、リアルに描いてほしかったな」とは思いました。

「やっぱり、ノーラン監督は米英だから言いづらいんだろうな」と「そんたくしたのかな」とも思いました。

そもそも米英側の論理としては「広島や長崎への原爆投下はまったく正当であり」「悪いのはナチスドイツと大日本帝国」なのですから。

この「成果」でオッペンハイマーは一躍「スター」となります。
アメリカ国民の歓声、賞賛の嵐の中、彼には「別のシーン」が頭の中にこだまします。

目の前で自分を賞賛してくれている観客の女性の顔が「原爆の熱でめくりあがって燃えていきます」「人々が次々燃えてしまいます」

そして「観客の拍手やスタンディングオーベーションの音は」「原爆の振動」かのように彼の脳裏をふるわせます。

そして彼は、賞賛する原爆投下を決断したトルーマン大統領に謁見します。

彼の賞賛と別に「私の体は血塗られたかのようです」と、まるで喜ばないコメントを彼は大統領に告げます。

トルーマンは笑顔で「君は悪くない、原爆を投下した責任は命じた私にある。私がうらまれるだけだ。君は問題ない」と言いますが……トルーマンは「水爆を作るのは反対だ」と大統領に告げて部屋をあとにします。

その時に笑顔で社交辞令的に対応していたトルーマンが「あの弱虫を二度とホワイトハウスに入れるな」と言い捨てる声が流れます。

そして、オッペンハイマーは「水爆反対」を言い出し、もともと弟や愛人がアメリ共産党の党員だったことから「ソ連へ密通しているのではないか?」と疑われるようになり、自分がトップだった原子力委員会の最高責任者の地位を政府から追われる立場になります。

そして、裁判ではない「聴聞会」でつるし上げされる身となります。

これが、冒頭の「尋問シーン」へ戻ってくるわけです。

ですが、この映画の「醍醐味」はこのシーンなのです。なぜなら、尋問で「広島や長崎で一体何人が死んだのか?」これを当のアメリカの司法当局者から「詰問」される。

「何人だったけ?」オッペンハイマーが記憶曖昧に答えると検事は
「11万人だ」「いっぱい死んだのだ」

……これ?わかりますか?壮大な皮肉なんです。ノーラン監督はこの映画をつくるにあたり「直接連合国や米英政府を批判」しませんでした。

正直「肩透かしするほど」「米英政府を責めるコメント」は映画ではないです。

彼は「アメリカは悪いことをした」と直接的に言わない代わりに「映画で悟らせる」という手法をとったのです。

なので、映画リリース後も彼は「自分がどういう意図でこの映画を作ったか」は日本側のコメントにも一切応じていません。「私がそれを言ったら、映画を見る人が自由を失う」「観た人がそれぞれの考えをもてばいい」と。逃げたように感じたのですが「違う」

ノーラン監督は「めちゃ頭良くて」「知性が高い人」です。それゆえ「直接的に糾弾・非難したら」「政治問題にまきこまれて」「余計な詮索で破壊される」という考えがあった。「ステレオタイプ」に「色付け」されて意味がない炎上に巻き込まれる。

でも「これは映画なんだよ」って映画という文化作品の枠にわざと落とし込んで表現することで「真意」が「見てわかる人には伝わる」ようにしたのです。

巧妙ですね。

ノーラン監督はわざと、途中まではだらだらオッペンハイマーの「成功者への華々しいアメリカンドリームの道」を描いておいて、原爆投下した直後「落とす」ほどの「転落」を表現しました。

そして彼は周囲の賞賛とうらはらに「しだいに廃人」のようになっていく……。

そこなんですね。そして、最後は「多数のICBMが世界中で飛び交う」シーンで締めくくられます。

これ、実は「反核反戦映画」だったんです。モロ。

この映画をみたら「欧米の人」は「栄光」どころか「どこにも勝利がない」「自分たちも血塗られたオッペンハイマーと同じなんだ」と「思い知ってしまう」

後味が悪くなる……わけです。アメリカンドリームの「パンパカーパーン」「ラストハッピーエンド」じゃないから。

だから、この映画に隠されているメッセージは
「戦争するな!核兵器のない世界を」なのです。

それが読み解けた人……どれだけいるのかな?

なぜ、ノーラン監督は「明確な反戦映画」にしなかったのか?オリバーストーンみたいにね。

それは「最初から反対スタンスを表明したら」「本当の当事者たちが観ないで、意識も変わらず終わってしまう」からです。

あえて「悪いことをした人たちへの褒め殺し」を映画でやった。
だってどう見たってこの映画、原爆投下と水爆は「罪なのだ」と自覚して苦しむオッペンハイマーと対照的に「トルーマン大統領」が「悪人としてうろたえる」「程度の低いやつ」とその人間の違いを自虐的に表現しているもんね。

あの映画で、登場人物が「つぶやく」「語りかける」セリフが自動的に「原爆は罪だろう」って「自白させている」わけです。

これが天才ノーラン監督の「巧妙さ」なんです。

これで思い出したのは彼の「ダンケルク」でもそうだった。米英軍がナチスドイツに大苦戦して撤退するあの映画で「ほとんど死んでしまって」「なんとか生き残ってイギリスに帰還できた主人公の兵隊が」「ダンケルクの戦場と大違いの静かで平和な暮らしのイギリスの地で」「チャーチル首相が、国民は最後まで戦え」とラジオで「戦争鼓舞」しているのを聞いて「しらける」シーンがあります。

あれと同じで、彼はチャーチルが「威勢のいいことを言って」「実は現場兵士をすりつぶしている現実」「それに翻弄されて死んでいく一般市民や兵士」の「バカさ加減」を「批判」しているわけです。

それが、あの「ダンケルク」の本質だね。

そういう点で、ノーラン監督は「チャップリン」と同様、映画人として、きちんと映画で「語る」ことをしているんです。

この映画は国連の場で上映すべきだし、世界の人、ましてや被害者のわれわれ日本人、広島、長崎の人は「絶対みてほしい」と思います。

そうすることによって「核兵器のない世界はどうしたらできるだろうか?」という意識や思考をみながしていく……それこそがノーラン監督がこの映画にこめた「メッセージ」なのです。

どうですか?この映画を「米英の勝者の賞賛映画」だと「浅い読みで観ている人」平和運動家の人……だめですね。

もっと「本質」「深い読み」しないと……

そういう思考ができる人、教養ある人が……少なくなったんだね。

だから、日本人はダメなんだろうね。ドラえもんや変な家を見ている頭の程度なんで。

堀江やひろゆきのコメントを見たがって信じている時点で……終わってる。

川勝にバカ扱いされてもしょうがないのかもしれない。
竹中にバカ扱いされてもしょうがないのかもしれない。
(内海君:小市民)