内海新聞のブログ

1996年創刊の我が国最初の電子新聞

熱海の土石流。日本の法律がザルな理由

熱海の土石流。警察も熱海市も長年「違法」であるにも関わらず、天野らを「有罪」にしてこなかった。

なぜかというと「法律で処罰できる内容でなかった」としていたからである。

森林法に違反した……「やめてください」は言えるが「やめないと逮捕する」はできなかった。

それに乗じて、天野は「やっちゃえ」でやり続けた。

 

で、みなさんは、こういう日本の社会問題、刑事事件の「裁判で罪軽いよな」と思う場面が多いと思う。池袋暴走事故の飯塚の処罰も2名死なせて禁固5年だった。

これも、業務上過失致死だと罪が軽い。危険運転致死でもいいとこ懲役15年だろう。

「人2人死なせたのだから死刑で当然」がならない。

 

なので、相変わらず、こうしたドライバーの怠慢による事故は続く。

 

そこで、警察や検察に食いかかる人も多いと思う。遺族や被害者。当たり前だ。

でも、警察や検察に告訴や告発して不受理や「不起訴」にされて、文句言うと逆に言われると思う「だったら、法律を国会で変えてください」「われわれは法律に書いてないことはできないのです」

 

実は正論なのである。なぜなら、日本は国会で決めた法律によって役所も動く。

法律に書いていないことを勝手にすることは県も市もできない。

この大原則がある以上……「事件を再発しないためには、被害者らが国会議員に言って国会で法律を変えてもらう」という運動が必要なのである。

 

こうして、裁判員制度や、危険運転致死罪などもできてきた。

 

それにしても、なぜ日本はこんなに犯罪者天国になるほど法律の規制が甘いのだろうか?

 

それは、明治時代にさかのぼる。

君たちは、そういう日本の法律がどうやってつくられてきたか?の歴史すら学校で学ばない。

明治憲法ができて、民法ができて……その程度か?ダメだな。

もっと、根本的なところを知らないといけない。

 

もともと、日本は江戸時代まで「藩主の命令」が絶対だった。その上の「江戸幕府」の命令が絶対だった。

それに背いたら「死罪」である。軽くて投獄。伊豆諸島や琉球(沖縄)などに「島流し」である。厳しすぎた。

 

集落が飢饉で、庄屋が村人の貧困をみかねて、地元の役人に言っても無視され、怒って江戸幕府まで上京して「嘆願」することすらあった。やることはできて、悪い役人も処罰できたが、同時に「自分たちも処刑」された。

 

不倫は死罪だった。「失楽園」どころじゃない。

江戸時代ではキリスト教は禁じられ、信者は見つけ次第「投獄」「死罪」でした。

 

ただ、殺人事件や不義理な事件での被害者には「かたき討ち」がある程度許されていた。これは、今なら賛成する人もいるかもしれない。

 

どうだろうか……今のキミたちは……とても死なないでいい世界に住んでいると思わないか?

 

明治維新になって、こうした江戸幕府のやり方をやめ、欧米式に「法律をつくり」「裁判所が裁いて」「罪人を国が処罰する」体系ができた。

その時、法学者で「日本をどういう国にするか?」議論された。

方針は2つだった。

1つは、アメリカのように「なんでも細かく法律で書いて、犯人には罰則も厳しくする」やり方。刑罰重視

2つは、ヨーロッパのように「ある程度法律では縛るが、犯罪者は社会が生み出した病気みたいなものだから犯罪者ばかり悪いのでなく、犯罪者を生み出す社会にも連帯責任がある。犯罪者を処刑するのでなく教育して真人間に再生して戻ってもらう」更生重視

 

であった。議論の結果、日本の法学者は2つ目を選んだ。その結果、犯罪者の死刑は最低限にされ、法律はアメリカのように細かく具体的に違反基準を書かず、あいまいにするが、それは時代の変化によって裁判所に裁量権をゆだねて柔軟に法解釈ができるという現行の制度になった。

 

ちょっと難しかった?ま、しょうがない。あんまり簡単に書いてもかえってわからないので。

 

「犯罪者は処刑よりは教育して再生する」という考えが採用された理由は

「日本人は欧米人のようにいちいち、処罰を厳しくて言わないとわからないバカではない。長い神道や仏教の教えで村人たちは自分たちで道徳的に行動する人が多い」

「落とし物や財布が道に落ちていたら、諸外国では真っ先に「うっしっしっ」って自分のものにするが、日本人は「道端にていねいに置いて気づかせる」「連絡先がわかれば届けて渡してあげる」」

 

世界でも驚くほど、道徳観が高い国民だったからです。

これでなぜ日本の法律が加害者に甘いのか?わかりましたか?

 

困っている人がいれば、自分たちが貧しくとも、ご飯や水をわけ与えた。これが、トルコの座礁船のエルトゥール号の美談にもなったわけです。

 

それゆえ、いちいち何でも法律に細かく書いて「厳罰」しないと「わからない」国ではないという認識からそうなったのである。

そういう点では「世界に冠たる崇高な我が国日本」でした。

 

中国を見てみよ。あの国では、強盗でも即座に死刑になる。詐欺ですら死刑。中国では裁判で死刑判決が出たら、日本みたいに何年も生かしてくれない。その日に移送されて銃殺である。私は中国に旅行した時、目の前を「死刑車」と横断幕張ったバスが通過するのに度肝を抜かれた。

 

たしかに世界基準で見たら日本は犯罪者に甘い国だ。なぜなら

「悔い改めて、真人間になってやり直しなさい」

「自分のなかにいる神様の善に気づいて、迷惑をかけた人たちに、言われずとも自分から贖罪する日々を続けなさい」

という、キリスト教の聖書にもあるような……考えが、深いメッセージ、国家の意志として国民に対してこめられていたから。

 

なので、私は先般、医師の不正を厚労省に相談した。犯罪者に手を貸す医師がいて、別の医師から「やめさせてくれ」と言われた。多くの被害者が出ることがわかっていた。

でも、厚労省は「悪い医師がいても止められない」「なぜなら、医師はそんな変な人がなる仕事ではないというのが基本にあるから」「免許を出した人は最大限守られる」というわけだ。

 

これは、弁護士や警察官、消防官であろうと同じ原則である。

 

けれど、今は、その大事なポイントを知らない、自覚しない国民が増えた。「法律に書いていなければ、何をしてもいいんだ」と。

 

こういう風潮は堀江のライブドア事件の時からひどくなったと思う。

 

こうして、日本人、日本国民の誇りでもあった「高い道徳」は失われていった。

 

さて、熱海の土石流の問題に戻るよ。

そもそも、森林法が甘いのは「山を持ち、預かる人は、そんな金もうけでポンポン売り買いして粗末に扱う人はいない」「一族代々、山を大事に守り、言われることなくきれに整備し、乱開発などもってのほかで、生態系も守る」のが言われずとも「当たり前」だった。

だから、今のように、簡単に山を売り買いし、しかも山を守るつもりもまるでない人が金にまかせて買い占めたあげく、木を抜いて捨てたり、沢を埋めて土石流を起こすということは「そんなひどい事をするわけない」という前提で法律が作られていた。

 

でも、そういう山守をする家、人も減った。林業をする家は絶滅しているし、山は放置され木も生え放題。

 

みんなの林業への無関心は……おのずと、地上げ屋暴力団の「カネのネタ」にされ、食い荒らされたわけです。

 

もちろん、今回の事件で、国も県も山林や川の源流の開発を厳しくするように法律を変えると思う。

 

けれど、法律を増やせば増やすほど、わたしたちの「道徳」は「負けていく」のです。邪悪な世界に。

崇高な日本国民はどんどん劣化していく。

 

その行き着く最後、われわれは今の六法全書の何倍の厚さの法律書に押しつぶされ、おびえて生きる、重苦しい生き方をするはめになる。

 

……それでいいのですか?

 

だって、あなたが、天野や麦島にせよ、自分の心の神様の存在に気づいて「こんなことをしてはダメだ」と産廃を捨てる手を止め、切り倒した木に謝り、また木を植えて、自然の動植物が帰って一緒に住む世界を実現すれば……六法全書に死刑の項目を増やす必要はないですよね。

 

そして、それは、息苦しいどころか、自由で、平和で、幸せな世界です。

 

人間にとって一番理想的でいい生き方は、六法全書を必要としない生き方です。

みなさんは、そういう世界のほうが良くないですか?

 

神様のほうに向いた世界が……

それともそれに背を向けて、重たい六法全書を抱きかかえますか?