内海新聞のブログ

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2339:ピティナの問題点

 今日は芸術の話しようか。ここのところ松山や東予クラシック音楽のコンサートよく行くようになった。ピアノや室内楽。あと自分はオペラとか声楽はあんま興味なかったけど「新しい発見」をするのが好きなので、わざと声楽のリサイタルもよく行くようにしている。

それでわかったけど、愛媛にも東京芸大桐朋音大出てコンクールで賞とったり、指導者としてがんばっているピアノの演奏家とかけっこういることはわかった。

自分は、小学校2年で初めてピアノを始めて先生は宮内庁宮務官の富士亮さんの妹さんで国立音大出身。私の英語の先生は富士さんのお母様で津田塾で津田梅子が津田英語学校を創設した際の第1期生のふみ先生だった。小学校4年で英語始めたけど当初は皇室と同じクイーンズイングリッシュだった。

今の天皇陛下浩宮)と、弟の秋篠宮礼宮)がヴァイオリンやヴィオラを愛奏するのは富士宮務官がヴィオラの名人だったことも起因する。

地元の武蔵野市立第二小学校が公立小なのに音楽教諭の伊藤王春先生が熱心で、驚くことに音楽室は天井が高く残響版がついた本格的なホールであり、楽器もアコーディオンがオーケストラ編成で数十台、ヤマハの最新鋭のエレクトーンが2台、マリンバもプロ仕様のものが3台、ドラムセットはヤマハではなくパール。金管楽器ヤマハのトランペットからアルトホルン、ユーフォニウムからチューバまで揃えて「クラシック音楽のオーケストラ」を小学生からやる。当時小学校なのにプロのミュージシャンが使う「シンセサイザーキーボード」もあり、コルグ。そしてヤマハが開発した最新鋭のDX7も新品で購入して使っていた。

私も小学4年から音楽クラブに入って、毎朝授業前に練習をして3年を過ごした。音楽クラブに入っている子もピアノやヴァイオリンなどを習っている子も多かったのでレベルは高く、私は、小学生でアルトホルンやトランペットをやりスッペの「詩人と農夫」や「軽騎兵序曲」チャイコフスキーの「白鳥の湖」、ビゼーの「カルメンのアラゴネーズ」、シベリウスの「フィンランディア」を演奏していた。
イージーリスニングの「涙のトッカータ」やアダモの「雪が降る」とかも演奏していたし歌謡曲もやったと思う。「宇宙戦艦ヤマト」も定番で演奏していてかっこよかったね。

1年で10曲以上やって、伊藤先生がそれをプロ用のマイクとオープンリールで音楽室で録音してアルバムのレコードにして記念にみんなでもらっていた。

音楽クラブは武蔵野2小の看板で入学式や卒業式、運動会などは必ずオーケストラやアンサンブル演奏を披露し、参観の父母、年1回の定期演奏会は大勢の父兄と生徒でにぎわった。

こういうレベルの話は、私が栃木や京都、長野に行って小学校を訪問した際「全然そのレベルになかった」現状をみて、
「公立小なのに、私立の小学校を超えていたのか」と思ったし、そういう高度な音楽教育を武蔵野2小がしていたことを誇りに思う。

そのあと、武蔵野市に住んでいたので市の小中学生の釣りクラブを運営して、武蔵野市の釣魚連合会の会長をしていた作曲家の原田甫さんと知り合いになり、人生のいろいろな面でお世話になった。

原田さんは北海道の札幌2中の出身で日本独自のオーケストラ音楽の作曲家の巨人である「伊福部昭」の愛弟子の一人だった。

伊福部昭……「ゴジラ」の音楽だね。伊福部さんは東京芸大で作曲科の先生として最初いたのだけど、そりがあわず辞めて東京音大に行ってしまった。

この当時は、大学に行くというのは「大学ではなく」「教授、先生が好きでその人にあこがれて」行くものだった。

なので、自分の師がいないなら「大学のタイトルもいらん」という、情熱や気骨にあふれる学生がけっこういた。

なので、原田さんも東京芸大を中退してしまい、伊福部先生のあとについていく。
伊福部先生の門下生は「黛敏郎」「芥川也寸志」……今の人は知らないのか。クラシック音楽のバラエティ番組で、黛はテレ朝の「題名のない音楽会」で司会者をつとめ、NHKの「音楽の泉」の司会者をつとめたのが芥川だ。芥川は芥川龍之介の息子。

伊福部先生はこれらの東京芸大の作曲家の弟子たちを「食わせる」ためにゴジラの映画音楽、多数の映画音楽を引き受けて「仕事をおろして」やっていた。

あと伊福部門下生って、君たちもあんま知らないと思うけど、東京芸大のその筋の人は知っている「池野成」とか「今井重幸」、それに私が晩年お世話になった「永冨正之」さんがいる。

永冨さんは原田さんの親友で、私がある人生の問題で苦しんで相談したとき「永冨のところに俺の楽譜を持っていけ」と言われて、お会いしてつきあうようになった。

ちょうど、永冨先生は東京芸大の作曲科の教授から附属音楽高校(芸高)の校長になった。

桐朋音大の講師もつとめ、東京芸大退官後は聖徳学園の講師で終えた。

奥さんは永冨和子でピアニストで「ムジカノーヴァ」という雑誌、そう、全日本ピアノ指導者協会、ピティナとかのあっちのほうで有名だったみたいだ。

ただ、原田さんの評では「永冨の方がピアノは奥さんよりうまいと思うけどな」って言っていた。
「永冨は、日本でオーケストラの楽曲をピアノに編曲できる人間としては一番だと思うね」
と。

それはウソでないと思う。私は代沢の永冨先生のお宅に行って、自宅のグランドピアノでの彼の演奏を目の前で聴いたけど……ピアニストとしても普通にいいんじゃないの?という腕前だった。

当時の私はピアノの先生たちがやっている世界とか、全日本ピアノ指導者協会だとか、ピティナコンクールはまるで興味なかった。

だけど、松山や東予の演奏会ではその全日本ピアノ指導者協会や、ピティナコンクールの話がやたら出てくる。

演奏している人も食べるためにピアノ教室を運営している。

そして、そこで賞をとったとか、国際コンクールで賞取った……そういう人の演奏会も毎度聴くようになったのだが

「だめじゃん」
っていう演奏が多いのだ。

ピティナっておかしいと思う
 松山や東予で多数のピアノコンサート、リサイタルを聴いて理解したのは
「あれ?東京芸大のピアノ科だめじゃん」
桐朋音大のピアノ科優秀じゃん」
これだった。

日本の頂点に立つ、国立の音楽大学の最高峰「東京芸大」のピアノ科出身の人の演奏は「破綻」「え?」という演奏が多かった。

いっぽうで、桐朋音大出身のピアニストは「きちんと」「しっかり」「端正な演奏」を心がけて「やりきる」人が多かった。

この差はなんだろう。

東京芸大、タイトルに甘えてポンコツ化しているのかな?」

一抹の不安がよぎる。

そして、なぜか「プロコフィエフ」「リスト」の「超絶技巧の曲」をみなやる。

ものすごい、速さでスケール(ドレミファソラシドの鍵盤)をダダダーッって鳴らし「うわぉうわぉ」というぐらいに鍵盤をひきまくる。

「曲芸飛行ですね」「アクロバットの中国雑技団ですね」

しろうとや、私の妻は「すごい」って感嘆している。

でも、私は
「いい加減にしろ」
「もうやめろ」
「これは音楽ではないよ」
って心の中で悲鳴をあげる。

「こんな超絶技巧を披露することばかりに、みんな熱心なのか?」

なぜかというと、ピティナっていうの?あのコンクールだかオーディションの課題曲がプロコフィエフなんだ。
ロシアのな。

たしかに「ロシア」って音楽大国だよ。ショパンコンクールや世界のピアニストでもロシア、モスクワ音楽院のパワー、影響力は絶大にある。

でもだ。私はロシアの連中、やり方は「わかるし」「すごい」「お前らの教育は」「科学的で論理的で」「すきもない」「英才教育の粋」だと思うけど……肝心の「音楽」がないのだ。

■リストやプロコフィエフは弾けても、ショパンが全員弾けない実態
 つまり、日本のピアノ教育界は「相変わらず」「超絶技巧」「指が回る」「楽譜を間違えず完全に弾ける」そういうところばかりに目が行き、ピアノの先生たちも「ピティナのハイレベルコンテストやコンクール」で「勝てる」「いい」スコアになるように指導して育て上げるのが「いい」と思っているようなのだ。

そこには「音楽」がなく
「心や魂がこもった芸術」もない。

それで、こうしたピティナだか、コンクール受賞歴が多い人の演奏で「共通する問題」があった。

それは、彼らが「リストやプロコフィエフ」を「ものすごい早回しや、強靭なたたき方で完全演奏」したあとに、ショパンの曲を弾くときだ。

「ボロボロで、曲になっていない」
のだった。

え?「リストよりショパンの方が指も、音符も楽だろう?」

なのに、彼らは全員
私が普段聴いている「ウラディミール=ホロヴィッツウクライナ)」や「ディーヌ=リパッティルーマニア)」「ヴィルヘルム=バックハウス(ドイツでチェルニーの愛弟子)」のようなショパン、ベートヴェンの演奏がまるでできない。

「曲想がなく」「情感もない」「タッチも微妙にコントロールできない」
そういう演奏ばかりなのだ。

え?悪いけど、私は、フル演奏は無理だが、右手だけでもあなたより「ショパンの本当のイメージ」で弾くことができる。

「こころ」「たましい」がこもり、聴いた人が「魂を揺り動かされて」「涙を流す」演奏が……彼らはできないのだ。

まったく。

ロボットで金属的な演奏……。

これが「ピティナ」とか「全日本ピアノ指導者協会」の「ゴール」だったのか。

だめだな。

うーん、悪いけど、本家の「イタリア」「フランス」などのEUとか、アメリカの一流の音楽スクールでも……こういう「表現力が乏しい」演奏は「認められない」と思う。

■呼吸や間合いがない演奏が多すぎる
 妻は、私と一緒になる前は「クラシック音楽もまるでわからない」人だった。でも、演奏会のあと、私が「今日の演奏はダメだね」ってコーヒー飲みながら言っていると「何がダメなの?」って聴いてくるので、私が

「俳優の高橋英樹も言っていたけど
 【演技に間(ま)ができない俳優が多くて嘆いている】
 それ……クラシック音楽の演奏でも同じことになっている。

 楽譜と楽譜の間にある「呼吸」「間(ま)」が演奏できない人が多すぎる。
 つまり……曲がわかっていない。
 自分で自分自身で曲を歌っていない。
 だから「間」がとれない。」

「演奏するときは、まず、楽譜を読むことだよね。音符じゃないよ?
 その曲がどんな曲なのか?
 自分でストーリーを描けることなんだ。
 イメージ。頭の中に曲想が描けるかな?
 それを表現するのがインタープリテートという「解釈」の作業。

 でも、それをしないで、ただ楽譜を楽譜通りに弾いて
 そのフレーズがどういうイメージかもなく弾いていると
 心や魂が抜けた演奏になってしまう。

 ピアノって、ヴァイオリンとか弦と違って、機械のアクションで弦をたたく打楽器なんだけど、そのアクションも微妙な指や力のかけ方で音が変わるんだ。

 ピアノの前に座って、まったく力を入れないで、指を鍵盤の上に置いてひじを重力に従って落としてごらん。

 音なるよね。その音、なるかならないか……わからないぐらい、鍵盤を指の感覚でアクションの上から下までを感じて自分の体と一体化してごらん。

 今までのピアノ教室のその辺のヤマハ程度の指導と違う、世界が広がるから。

 良質なピアニストは「ダイナミックレンジ」が広い。

 それは、ピアニッシッシモ(ppp)もフォルティッシッシモも(fff)も自由自在に出せて、なおかつ、肩と腕が壊れない弾き方をできる人だよ。

 だいたいの人はピアノを力任せに弾いて腕が壊れる。

 でも、このピアノの本当の弾き方、使いこなし方を理解してピアノに向き合って演奏できる人は少ない。

 私が知る限りでも本当に少ない。

 でも、この間のアルベルト=ピッツォ、イタリアの神童はそういう弾き方をしていた。
 だから、彼はスタインウェイをダイナミックな低音で鳴らすかと思うと、綿のようなかすかな澄んだ音色で高音を鳴らしてピアノをフルートに変えるような演奏をしていた。

 彼は、私が理想としている腕の配置、弾き方をちゃんとしていた。
 以前見た、バークレイできたえた日本人のピアニストの人もそうだったよ。
 やっぱ腕の位置をみたら、ダメかどうか……わかる。

 そういう演奏……出会えた時はうれしいな。」

……妻はこういう話を、コーヒー飲みながら毎回聴いている。

そうやって、何度もコンサート行くようになったら「いい」「悪い」「だめよね」って言えるようになった。

ある日、私はこういうことを妻に言っていた。
「そして、音楽というのは、作曲家の手を離れた独立した楽譜になったら、ひとつの宇宙であり世界だけど、だからといって音符だけで忠実に弾いたらいいわけではない。

 バッハや、ベートーヴェンショパンシベリウスドビュッシーラフマニノフ……こういう作曲家の生まれ育ち、国、民族、宗教、風俗……いろいろな文化や教養を知ることだね。

だから、本当にいいピアノ演奏家、音楽家になるには、テクニックだけではダメなのさ。芸大を出たらいいわけでもない。
コンクールで賞をとったからいいわけでもない。

教養が必要なの。全人教育が必要なの。

今回きいていて、いい演奏をしてくれるのは「無名」「コンクール歴なし」「学校もそこそこ」ぐらいの人が一番いい演奏をしているよ。

だから「学歴」は音楽演奏家にはさほど関係ないのかもしれないね。
それより、どういう先生について
どれだけ自分で音楽を聴いて、譜面を読んでイメージをつくりあげて
心と魂の「心眼」で演奏をできるかのほうが大事なのかもしれない。
義務でやるのでなく、音楽が好きな人の方がいいのかもね。

私は芸術家やピアニストには
山本周五郎の「鼓くらべ(つづみくらべ)」という小説を読むといいと言うけど。
★松風の門 (新潮文庫) ……ここに入っている短編小説
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 ラフマニノフのピアノ協奏曲ひとつとっても、2番と3番があるよね。世間のわからない人は3番が超絶技巧で難しいともてはやす。

 だけど、私にとってラフマニノフのピアノ協奏曲で優秀ですばらしいのは2番だよ。なぜ?

 ラフマニノフ精神病者だった。うつ病で、精神科医の治療を受けていた。そして治ってきて作曲に復帰して書いたのが2番。
 だから、ラフマニノフは精神的にものすごい押しつぶされて、人間ぐちゃぐちゃになったけど、その苦しみ、常人では耐えられない精神的苦しみの中で、神様は芸術家や演奏家に「光」を与えるの。
 そして、2番にはラフマニノフがロシア人として、ロシア民族としての魂やほこりをこめた旋律がいっぱい入っている。愛国的な曲でもあるよね。

 その光が2番には満ち溢れている。だから傑作なんだよ。

 シベリウスの「フィンランディア」を演奏する時、これはフィンランドが当時王政で民衆は劣悪な支配と奴隷状態で苦しんでいた。

 それを打ち破って、民衆が蜂起して民主主義を勝ち取るまでの姿が描かれている。フィンランドの人にとって「自由と民主主義」の「血と苦悩を乗り越えて得られた」「フィンランドの人の魂の歌」それが……あの荘厳なメロディの途中でふと流れ出すフルートの旋律だよ。

だから、フィンランディアを演奏するときは、フィンランドの人の歴史や心、魂、フィンランド人としての誇り……を理解して自分の中にシミュレートして、その姿で演奏しないと、本当のいい演奏にならないんだよ。

こんな話を、今のヤマハだろうが、芸大だろうが、桐朋で教授が学生に教えているのかね?

でも、こういう大事な話が、音楽教育、芸術教育の現場ではこれからの若い人に指導することが本来の音楽教育なんだよ。

みんな……テクニシャンしか育てないようにしている。

演奏がうまいだけだったら……MIDIと自動ピアノで十分なんだよ。

人間が演奏することは、ロボットやAIでは到底わからない領域だし。

心やたましいがこもっていない演奏は、いくらやっても……それこそ世界と世の中を破壊していくだけの行為にしかならないんだよ。

でも、そういう音楽や芸術の本質がわかっていない、わからない人の演奏がはびこったり、下手すると「すごいね」って賞賛されるところに世の中のキチガイさ、おかしさを感じるよね。」

まあ、この辺の私の気持ちが妻が理解するときは来るかわからないけど……

誰もわからないのかな。

そういう人が今日も「ピティナ」「全日本指導者協会」「コンクールでの賞の選考基準」となって、結果として人々の心から音楽は魂が抜け、生の演奏もすたれ、その演奏をするためのホールの重要性も意識されなくなり、最後はピアノ人口も、音楽を愛する人の人口も減って、全員が衰退してシュリンクして……消えていく。

それが私には見えている。
(内海君:小市民)
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うーん、自分に500万円ぐらいあったらポーンと出して買い取るけど。タイミング残念。さすがに難しい。

ということで、日本のどこかに誰かいるかもしれないので……
情報だけ出しておきます。
(内海君:小市民)